2007年

ーーー2/6ーーー ラジオ出演

 ラジオの生放送に出演した。信越放送の火曜日午後8時からの番組。ラジオに出るのは初めてのことであったが、緊張感よりは好奇心の方が先に立ち、ワクワクしながらその日を迎えた。実際のところ、なかなか楽しく、また勉強になる体験だった。

 なんで私ごときがと思われるだろう。理由は、知り合いのアナウンサーO氏が担当している番組で、飛び入りのゲストが必要になったから。本来は週替わりのゲストが出演するコーナーなのだが、今月は5週あるので、追加の人材を探していたところ、私のことを思い出したそうだ。

 番組は1時間半だが、私が出るコーナーは開始直後の20分ほど。私とO氏の対談という形に、アシスタントの女性が相の手を入れる。途中、私からのリクエストということで一曲入る。

 1時間前に放送局に入った。本番前に会議室で簡単な打ち合わせをする。そのときアシスタントと、局の担当者に紹介された。アシスタントは綺麗な人だった。

 それからスタジオに移動。テーブルに着き、装置について説明を受ける。テーブルの向こうには大きなガラス窓があり、ディレクターやエンジニアといったスタッフが働いていた。O氏の前にはレバーの付いた装置が置いてある。そのレバーを上げ下げすることでスタジオのマイクが入ったり切れたりする。つまり、そのレバーが上がっているときは、スタジオの中で余計な物音を立ててはならない。

 テーブルの上の大きな時計が、定刻に近づいてくる。「本番一分前です」と号令がかかる。やはりちょっと緊張した。

 始まってしまえば、あっという間の出来事だった。終わるとO氏が例のレバーを下げて「これで終わりです。早かったでしょう」と言った。話の内容は木工家具作りとか森林資源のことだが、思った事の半分も喋れなかった。

 家に戻って家内に感想を聞いた。O氏と比べて、私の声がとても弱々しく聞こえたとのこと。そう言われてみれば、O氏もアシスタントの女性も、かなり大きな声で話していた。私ももっと大きな声で話せば良かったかも知れない。しかし、問題は声の大きさではなく、声の質や喋り方だとも思われる。

 また家内は、私のトークがときどき途切れるのが気になったと言った。ほんの一瞬のことだが、それがとても間が抜けて聞こえると。その点、専門家はよどみなく話せるから流石ねと。

 それは私も喋りながら気がついていた。話題を準備しているとはいえ、台本があるわけではないから、話が前後したり、言葉不足のまま口から出てしまうことがある。それを言い直す瞬間に言葉が途切れるのである。それを意識すると、ますます頭が混乱してしまい、ぎこちない喋りになってしまう。

 人前で喋るのなら、表情とか態度でカバーできる部分があると思う。また、顔が見えなくとも、一対一の関係、例えば電話などでは、喋りの不手際はニュアンスで誤摩化すこともできる。ラジオの場合は、言わば得体の知れない相手、反応の得られない相手に向かって喋ることになる。そこに違和感があり、落ち着かない。そう言えば、留守番電話に向かって喋るときも、なんだか落ち着かないものである。

 今回のケースは、私が一人でマイクに向かって喋るわけではなく、O氏との対談の形であった。だから、O氏との会話に徹すれば、もっと自然に話せたのかも知れない。変にラジオの向こうの聴衆を意識するから、おかしなことになる。おそらくO氏が期待したのも、私との自然な会話であり、作られた説明口調ではなかったのだろう。そういうことに、終わってはじめて気付くところが、素人の悲しさである。

 それにしても、専門家は大したものだ。普段は何気なく聞いているラジオの中のO氏の話しぶりであるが、実はなかなか難しいものであることに気づかされた。

 流暢に喋るということ自体、端で見ていて凄いと感じた。思考回路と口がうまく連結しているから、よどみなく喋ることができるのだろう。また、自分の声がラジオの向こう側でどのように聞こえているのか、そこまで分かって喋っているのだと思う。さらに時計をにらみながら、ピタリと時間通りに納めてしまうところも凄い。とても素人が真似できるものではないと感心した。



ーーー2/13ーーー 契約書の小箱

 ある工務店の社長から、小箱の注文があった。用途は、建築の仕事が成約したときに、契約書を入れて施主に渡す入れ物にするとのこと。以前私が制作したムク蓋の小箱を見て、そのアイデアが生まれたらしい。サイズはA4のファイルが入る大きさということで、特注である。

 ムク蓋の小箱は、蓋が一枚の板でできていて、時々裏返して使うことが特徴となっている。ムク板は気温、湿度によって反ったり戻ったりするからである。そんなことで木の性質を楽しめるということが、この作品のおまけ的価値でもある。

 余談になるが、この箱をある木工の先輩に見せて、上に書いたような説明をしたことがある。そのときの返事はこうだった「いいと思うよ、そういうことを面白いと感じるお客がいれば」。

 さて、今回の注文では、箱が第三者の手に渡るということになる。だから、蓋が反るということに対して、使う人がどのような気持ちを抱くか分からない。趣旨が伝わらなくて、できの悪い品物と見られたら残念だ。そのような箱を採用した工務店に対する印象が悪くなったりしては申し訳ない。

 そこで、蓋を框組で作ることにした(框組 : 角材で四角い枠を作り、その中に板をはめ込んだ構造)。これなら反る心配は無い。そして、横滑りで本体に入れる仕組みにした。上から落し込む構造でも良いのだが、横滑りの方がピシャリと閉まるので、大切なものを収納するのに相応しいと考えたからである。ちなみにムク板一枚の蓋は、反ると動かなくなってしまうので、横滑りで開閉する構造にはできない。

 注文は4ケ。クリ材とクルミ材で、おのおの2つづつ作った(写真のものはクリ材)。制作にかかる前に、試作品を作った。小箱をこの蓋の構造で作るのは初めてだったので、加工方法や精度を確認するために、試作が必要と考えたからである。それと、寸法のバランスも、試作段階で検証しようと思った。結果として蓋を二度作り変えた。形が一発では決まらなかったからである。

 たかがこの程度の品物にそんな手間をかけるのか、と思われるかも知れない。しかし、たとえ小さなな品物でも、わずかな部分の形や寸法の違いで、雰囲気はガラリと変わってしまう。ちょっとした事にも気をつけて調整することで、はじめて「良い形」「良い納まり」というものが実現できるのである。それを追求しなければ、このような仕事をやっている意味は無い。  

 さて、この箱に入った契約書を受け取って、施主は何を感じるであろうか。 



ーーー2/20ーーー 新しい厨子

 新しい形のメモリアル・ボックス(厨子)を作った。以前のものは、屋根が尖った中世の教会建築を思わせる形だった。今回は、丸みを帯びた形の屋根にしたので、穏やかな雰囲気になった。材はクリ。

 扉は、前回と同じくムク板の曲面扉にした。曲面扉というのは、造形的な面白さが狙いではあるが、ムク板をそのまま使うための工夫でもある。扉を一枚のムク板で作れば、すっきりとした外観になる。しかしそれを平面の扉にすると問題がある。ムクの一枚板は環境の温度、湿度で狂う(反る)ことが避けられないが、平面だとその狂いがはっきりと出てしまうからである。曲面あるいは角面であれば、狂いはバレにくい。悪く言えば誤摩化しであるが、これも木を使う上での一つの工夫だと私は思う。ちなみに曲面は削り出し加工で作ってある。

 扉が付いている上半部に合わせて、引き出しが入る下半部も曲面にした。木材を曲線で切断すると、断面の木目は明瞭なパターンを描く。この作品では、その木目のパターンが上に凸のアーチとなるように意図した。天板も、下半部の箱の天地の板も、引き出しの前板も、そのような木目に統一されている。

 扉は柾目の板を使って、平行線の端正な木目にした。扉を開けた内部の背板は、板目板で山形の木目とした。天に向かうベクトル、あるいは高く神聖な場所を暗示したつもりである。

 木目に関するこれらの作為に、はたしてどれほどの意味があるか、異論はあるだろう。私自身、そのようなことにこだわらない場合もある。いや、場合によってはこだわれない事情がある、と言うべきか。大きな材を必要とする品物の場合は、思い通りの木目で揃えることは難しくなる。価格の面での制約も出て来る。その点、このサイズの品物であれば、かなり思い通りに、言わば遊び感覚で木目合わせの作為を楽しむことができる。

 扉の取り付けには、蝶番を使っていない。代わりに、扉の上下端の回転軸のところに小さな真鍮の丸棒を埋め込んである。その位置決めの精度を出すのが難しかった。それが報われたと言うべきか、蝶番が無いことにより簡潔な外観となった。

 将来何らかの修理のために扉を外すことができるよう、上半部と下半部は木ネジで止めてある。この品物を見て、それに気づく人はまずいないだろう。引き出しの入るスペースを貫通して裏からねじ込んであるので、木ネジが露見することはない。木ネジで固定しているが、お互いの位置関係は埋め込まれたダボによってピタリと合わせてある。

 取っ手は色の濃い材であるシュリザクラを使った。手垢などの汚れが目立たないようにとの配慮で、私のいつものやり方である。取っ手には指先がかかるようにわずかな掘り込みが施してある。電動工具で荒加工した後に手加工で仕上げるのだが、なめらかな手触りを得るまでには、ちょっとした手間であった。

 全く同じものを二つ作った。そのうちの一つは、近々父の位牌の住処になる。



ーーー2/27ーーー ケーナ製作教室

 
私は趣味の一つとしてケーナを演奏する。ケーナという楽器は素朴で単純、しかも自然素材で作られているために、ファジーな部分がある。部分的に音が出にくいとか、音程が怪しいとかがあって、なかなか100パーセント満足できるものには出会えない。だから、趣味でケーナをやっている人は、何本ものケーナを持っている人が多い。

 究極的には自分で作るのが良いと言われる。地元南米の著名な演奏家の中にも、自作の楽器で演奏している人が多いと聞いたことがある。

 かく申す私も、以前自作を試みたことがある(→過去の記事)。そのときは失敗だった。参考書を見ながら作ったにも拘らず、とうてい満足のいく品物にはならなかった。

 東京の白山に、コチャバンバという南米音楽専門店がある。そこで年に1〜2回、ケーナ製作の講習会が開催される。この前の日曜日にそれがあった。朝の列車で東京に向かった。

 集まった講習生は10名ほど。うち3名は女性。いずれも中高年という年齢層である。オーナー氏が作り方を教授してくれる。それに助手が2名。店の常連で、ケーナ作りの経験を重ね、ついに名手となった人たちである。

 やはり目の前で加工の実演を見せてもらうと違う。本で読んだり、サイトで見たりしただけでは、こういうニュアンスは伝わらない。ものすごく勉強になった。そして、実際に一人一本づつ製作する。出来上がったケーナは、過去の体験から来る悲観的な予想をはるかに越えて良く鳴った。

 もちろん完全な出来ではない。オーナー氏によれば、数を多く作っていくうちにコツが掴めるとのこと。二人の助手のうちプロ並の腕前の人は、既に200本くらい作ったとか。

 その助手の人、72歳の男性である。演奏も上手い。私もあと20年はこの楽器を楽しめると思うと、嬉しくなった。



→Topへもどる